妻の跳び蹴りが決まった。
拳をピンと広げ、肩甲骨を支点に腕をまっすぐに振る。
脚の回転は大きく、かつ速く。
100m選手がスタートラインから加速するように。
少し手前で跳び上がり、足を前に繰り出した。
まるでカンフー映画のアクションシーンのようだ。
足の甲が顔面に炸裂。
スローモーションで顔が歪んでいく。
蹴られているのは、僕だ。
えっ、僕?
両足でしっかりと地面に着地した妻が吹き飛んだ僕を眺める。
清々しく。
コーヒーフィルターをドリッパーにセット。
お気に入りの喫茶店で挽いてもらった豆をフィルターに入れる。
スプーンを水平に、正確に測って4杯分。
沸騰してから少し冷ましておいた湯をケトルで注ぐ。
豆がゆっくりと膨らみ、内包していた香りが目覚めていく。
豆が蒸れたことを確認してから、お湯を満たす。
大きく回し入れながら。
フィルター全体にお湯を行き渡らせ、手を止める。
ポタリポタリと絞り出されていく、黒色にも似た茶色の至福。
抽出されていくコーヒーに合わせてお湯を足す。
豆は覚醒を終えており、全体に注ぐ必要はない。
500円玉程度の円を描きながら、ドリッパーの中心に流し込む。
お湯を枯渇させて泡が落ちないように注意。
泡のえぐみは強すぎるのだ。
サーバーの目盛りが500mlへ到達する少し前にドリッパーを外す。
残されたコーヒーと泡を揺らさないよう、ゆっくりと。
サーバーのコーヒーを小ぶりなカップに注ぐ。
立ち上る湯気。
醸される香り。
早く起きた朝。
ハーブの成長を確かめつつ、コーヒーを口に含む。
広がる濃厚な苦み。
喉を伝う暖かさ。
豊かなる1日の目覚め。
コーヒーの香りに起こされた妻が、慌ただしく扉を開ける。
挨拶もなく、最高だった夢の中身を僕に告げた。
美しい跳び蹴り。
全力で駆け抜けた助走と、完璧に捉えた足の甲の感触。
僕に、なんの落ち度があったのか。
なぜ蹴られなければならなかったのか。
そこらへんは不明。
ただ、美しく蹴られて、スコーンと吹き飛んでいったらしい。
興奮して喋る妻に、僕は表情を失う。
何を言えばいいんだろう。
何を思えばいいんだろう。
何でも話せるということは、とても大切なことだ。
無駄な浪費をしてしまったり、不正に銀行残高を使用されたり。
言いたくないからと口を閉ざすと、家計の残高に齟齬が生じる。
疑心は膨れ上がり亀裂を生み、破綻へと導いていくだろう。
いいじゃないか、跳び蹴りくらい。
夢のなかだし。
理由もなく蹴られた僕を眼前に、嬉々として蹴りぬいた感触を喋り続ける妻を眺めてそう思ったのでした。
そして、苦いばかりのコーヒーを胃のなかへと注ぎ込んでいく。