俵屋宗達が好きです。
金銀極彩色を駆使し、贅を尽くした絵画。
豪奢が前面に押し出されることはなく、包み込むような機知と麗しさが表現されています。
平安貴族から連なる伝統を織り込んだ装飾様式を確立し、画壇に新風を吹かせました。
室町幕府滅亡、戦国時代突入、そして江戸幕府成立。
俵屋宗達の絵画は、荒々しい時代を生きながらも武家階級の勇壮思考に背を向けるような教養とセンスに富んでいます。
必見は、もちろん「風神雷神図屛風」。
(建仁寺ホームページより)
画面の中央を開けて、空間を際立たせる。
曲線はのびやかで色彩は落ち着いています。
下地の金を従えながらも醸し出される厳かさ。
雲の造形を墨だけでなく銀泥も使用し、複雑な濃淡を生み出す「たらし込み」の技法を駆使。
俵屋宗達の技巧の極まりを存分に堪能することができるのです。
風神雷神図屛風を見たいがために、建仁寺を訪問した回数は数えきれません。
本物は京都国立博物館に貯蔵されていますが、複製とはいえ、建仁寺でみる風神雷神図屛風は趣があって格別です。
建仁寺では、ほかにも海北友松の雲龍図襖絵も拝観できるし、小泉淳の天井画双龍図も
堪能できる。
最高でおますな。
働いている場合じゃありまへんで。
大切なことは建仁寺はんが教えてくれはるんですわ。
おこしやすぅ。
建仁寺の所蔵物はこちらからどうぞ。
俵屋宗達を継承しつつ、豪華な和風趣味芸術を展開したのが尾形光琳です。
尾形光琳による分かりやすく親しみやすい解釈により、その絵画様式は地域も時代も身分も違う人たちによって受け継がれていきました。
光琳の絵画は直截的で明快です。
大衆性と圧倒的な人気が、宗達から繋がる絵画様式を「琳派」と呼ぶようになった由縁になりました。
(京都国立博物館ホームページより)
尾形光琳は俵屋宗達と同じく、富裕町人層の出身です。
宗達は金銭力に恵まれた支援者に恵まれましたが、光琳の時代には豪華な金屏風を注文できるほどの商人や寺院は減っていました。
生家も衰退し金銭的に困窮した光琳は江戸へと出向き、顧客を有力大名家に求めます。
江戸在住期には複数の大名家と関り優遇を受け、家族も呼び寄せますが、5年間で江戸生活を終わらせました。
理由は大名仕えが窮屈だったこと。
順調な江戸生活のなかで送った手紙に、不満が書き残されています。
京都に戻ってからも大名家からの注文を受け、大作のほとんどを制作した晩年期を送ったのでした。
金銭的に困窮して勤労に勤しむも勤めることに疲れて持続可能な生活様式へと変化させていく。
この流れ!
完全にFIREムーブメントと一致します。
なんてこった、僕たちは琳派なのです。
FIRE? セミリタイヤ?
よくわからない横文字で自分たちを表現することはありません。
これからは、日本で育まれ、伝統を紡いでいった「琳派」を名乗ろうではありませんか。
尾形光琳の特筆すべきことは、俵屋宗達の流れを象徴し、次の世代へと受け渡していったこと。
僕も、何かを象徴したい。
絵でも始めようかな。
・・・。
こういう簡略的な発想ではいけませんね。
琳派の名に恥じない芸術性を、これからの人生で発揮したいと思います。