いつか忘れてしまうかもしれないので、あの日のことについて書き残しておきます。
冷たい雨が降っていた日。
辞めようと決意した日のことを。
僕は連日の資料作成で疲れていました。
会社の今後を提案する業務です。
社長に説明し、取締役会で共有してもらう。
組織を未来を左右する大切な業務だと思い、頑張っていたのです。
過去の方針を点検し、昨今の情勢に照らし合わせて提案の方向性を固めました。
説得できるデータを引っ張り出し、意図が伝わる数値を抽出しました。
パッと見て伝わるように何度もレイアウトを変更し、グラフを作り直しました。
チームとの相談を重ねて資料を作成。
上司に提出してコメントをもらう。
それから再度修正。またコメント。
際限なく続きます。
前回のコメントをひっくり返すようなコメントも多発されました。
継ぎはぎの資料。
いったい、どこに向かっているんだ。
1ヵ月以上の時間をかけ、ようやく完成です。
部長に提出したら、方向性からのやり直しを命ぜられました。
助けてくれない直属上司。
嘘だろ。
再度作り直して、もう一度上司からの閲覧を開始。コメント。
部長に却下された方向性です。お前、寝てたのか?
取締役会に間に合うように1週間で資料を完成させ、押し通しました。
そして社長への説明。
却下。やり直し。
マジかよ。
時間がないなか2日で修正し、なんとか納得してもらいました。
当初に目指したメッセージはことごとく削ぎ落し、残ったコメントは当り障りのないものばかりです。
‟状況は厳しいけれど、工夫を重ねて対処していく”
もう、10年以上言い続けている言い回し。
結局なにも変わらない。
社長提出を終えた日、会社帰りに博物館に寄りました。
国立西洋美術館のロンドンナショナルギャラリー展です。
フェールメールやレンブラント、それからゴッホ。
ルネサンス期のイタリア絵画は煌めいているし、ロマン主義の風景画には心が惹き込まれました。
素晴らしい61点の至宝たち。
見に来てよかった。
でも、僕は満たされませんでした。
頭の片隅に業務資料のことがくすぶっている。
せっかくの名画たちが、全く心に入ってこないのです。
そして、自己否定。
こんなに素晴らしい絵画を残している人もいるのに、僕は何をしているのだろう。
資料もまともに作れないなんて、もうダメなんじゃないだろうか。
イギリス肖像画のような陰影を纏い、電車に揺られます。
頭痛が酷い。
靴はすっかり濡れていて、駅からの家路への足取りが重い。
我が家が遠い。
そして、決めたのです。
もう辞めようと。
自分を騙すのは止めようと。
傷つかないふりをするのは止めようと。
幸いにも妻は許してくれました。
感謝、心から。
次の日、出勤してきた上司に揺るぎない辞意を伝えました。
コメントは受け付けない。
方向性の修正はしないし、再提出もなしです。
これから僕の人生がどうなるのかは分かりません。
退社したことを後悔することもあるでしょう。
そんなときには博覧会に足を運ぼうと思います。
そして、あの日の気持ちを思い出そうと思います。